博士論文
論文題目
波面合成法による立体音場再生における情報量削減手法に関する研究
論文要約
波面合成法は,ホイヘンスの原理に基づいてある場所の波面を別の場所で忠実に合成する手法である.この手法による立体音場再生技術は,ステレオホニックや5.1chオーディオといった従来の立体音響技術に比べて劇場やコンサートホールで演劇や音楽を鑑賞しているかのような臨場感をより忠実に再現することができる.また,この技術は聴取条件に対する制約がないため,聴取者は自由に頭を動かしたり席を移動したりできるし,複数の聴取者が同時に観賞することも可能である.そのため,この技術は次世代の音響技術として,通信やバーチャルリアリティの分野での応用が期待されている.
しかし,この技術は音場再生に必要な情報量が非常に多くなるという問題点があった.今までの研究は波面を忠実に合成することのみに着目しており,音場再生に必要な情報量を削減する研究はほとんど行われてこなかった.もし,情報を圧縮しても聴取者は同じように臨場感を感じるなら,音場再生に必要な情報量を削減することができるようになると考えられる.主論文では以上のような観点に基づき,主観評価実験をベースにして立体音場再生に必要な情報量の削減を検討する.
主論文は6章から構成される.
第1章では,波面合成法による立体音場再生技術について説明し,主論文における目的を述べる.
第2章では,主論文で取り扱う波面合成法による立体音場再生技術に基づいたシステムの構成について説明する.また,このシステムにおいて波面を忠実に合成する条件は今までの研究で十分に検討されていないので,計算機シミュレーションによって波面が忠実に合成される条件を検討する.そして,波面が忠実に合成されるためには,マイクロホン及びスピーカ間の間隔を波長の1/2以下に設定すること,無指向性マイクロホンよりも単一指向性,もしくは超指向性マイクロホンを用いた方が良いことを明らかにする.
第2章の実験結果に従って,マイクロホンおよびスピーカ間の間隔を波長の1/2以下に設定しようとすると,帯域が少なくとも16 kHzあるような楽音を対象とした音場を構築する場合には,設定すべきマイクロホンおよびスピーカ間隔が約1 cmになる.そのため,実際に用いるマイクロホンやスピーカの大きさを考慮すると,システムの実現は非常に困難になる.そこで,第3章では,システムの構築に必要なマイクロホンおよびスピーカの個数を検討する.主論文では臨場感の中でも特に方向感と空間印象に着目し,それぞれの属性に関する2種類の主観評価実験によって,マイクロホンおよびスピーカの個数を一定量削減しても方向感や空間印象が再現されるかどうかを検討する.そして,比較的低い周波数帯域でしか波面が忠実に合成されていない場合でも方向感や空間印象は十分に再現されるので,一般に市販されているマイクロホンやスピーカを24個程度用いたようなシステムでも十分に臨場感を再現できることを明らかにする.
第3章の実験結果より構築したシステムを遠隔地間でリアルタイムに実現するための伝送量は,従来のシステムの伝送量に比べて非常に大きくなる.そのため,映像と組み合わせた通信システムを伝送する場合には通信容量が不足する可能性がある.そこで,第4章では,システムにおいて伝送量を削減する手法を提案する.提案する手法は音源からマイクロホンまでの室内インパルス応答の情報を基に,マイクロホンで収録したチャネル信号から音源信号を抽出して伝送するものである.提案手法の有効性を検討するために,実環境で測定した室内インパルス応答によって伝送量を24個のチャネル信号から5個の音源信号に削減する実験を行う.主観評価実験によって提案手法による知覚への影響を検討した結果,提案手法による知覚への影響は対象となる音源が音声のような持続音の場合には問題にならないということが明らかになった.
第5章では,演劇のように演者という音源が移動している場合に伝送量を削減することを試み,チャネル信号から移動音源信号を抽出して伝送する伝送量削減手法を提案する.提案する手法は第4章で提案した伝送量削減手法に音源の位置センサを追加することによって構成されている.提案手法の有効性を検討するために,虚像法によって作成した残響空間におけるチャネル信号を対象に伝送量を24個のチャネル信号から1個の移動音源信号に削減する実験を行う.主観評価実験によって提案手法の知覚への影響を検討した結果,システムを構築する際に対象となる音源に対して適切なパラメータを設定すれば,音の動き知覚や全体的な知覚への影響はほとんどないということが明らかになった.
以上の実験結果から,24個のマイクロホンおよびスピーカを配置したシステムを構築した場合,比較的低い周波数帯域でしか波面が忠実に合成されていなくても聴取者は十分に臨場感を感じることができること,また,伝送量削減手法によって情報量が削減されても聴取者は知覚的な歪みをほとんど感じないという実証的知見を見いだすことができた.また,本手法を用いれば,現在の通信インフラでも情報が十分に伝送できるようになるので,従来情報量が大きすぎるために実現は困難であると言われていた波面合成法による立体音場再生システムを実現することができるという工学的意義も見いだすことができた.以上の本研究の意義と共に,今後の立体音場再生技術の展望についても第6章にて述べる.